僕たちの果て 触れた王泥喜の掌は、うっすらと湿り気を帯びていた。熱いと言えば熱い。 視界の角で額に溜まった汗がつうと線を描く。急いで、本当に急いで迎えに来てくれたのかと思えば、申し訳なさよりも嬉しさが勝った。 けれども、時々通り過ぎる車のヘッドライトが照らす王泥喜の横顔が、笑っている訳でもなく唇を引き結んでいるので、謝罪をするべきだろうと響也は思いたつ。 なんとなく緊張して言葉を探していれば、王泥喜が振りむいた。どうしてなのか、王泥喜は不思議とこういうタイミングで響也を見つめるのだ。 大きな黒い瞳が響也を捕らえれば、それだけで動けなくなる。だから、王泥喜を見つめたまま、響也の足は止まってしまった。ふいに立ち止まった響也をせかすでもなく、王泥喜もまたその場に留まる。 繋がれた手は、離れない。 「ごめん、ね。僕だけ幸せな気分になってて」 王泥喜のきゅっと上がった眉が怪訝そうに歪む、響也はもう一度「ご免ね」と言葉にした。 「無理矢理呼出ちゃったみたいで。僕、甘えちゃうけど」 「…検事が具合が悪いっていうから来ただけです。」 (無理矢理じゃありません)そう付け加える王泥喜の声は、普段大音声を誇っているとはとても思えない小さい。 「うん、でも暫く逢えなかっただろ? おデコくんに逢えただけでも嬉しくてさ。」 途端、響也の手に回されていた王泥喜の指先に力がこもる。え?とそちらへ視線を移している間に、王泥喜の顔は正面を向いていた。 そして、先程とは比べ者にならない早さで歩き出した王泥喜に腕をひかれ、響也は慌てて歩き出す。 「…こんな具合悪くなるくらい忙しいのに、わざわざ連絡くれたりしなくていいですから。」 「おデコく…。」 真っ直ぐに正面を向いている王泥喜の表情は見れない。言葉は淡々と綴られる。 「今週寝てないだろうって茜さん言ってました。だったら、俺に連絡とかしなくていいですから、少しの時間でも休憩に回してください。」 「怒って…るんだ?」 当然だよね。と、響也は胸中に呟く。 こんな時間に呼び出されて、心配して来てみれば浮かれている相手。普段だって、立派に小言を食らう状況だ。『迷惑だ』と言葉にしないのは、調子が悪い自分を気遣った、王泥喜なりの優しさなのだろう。 「ご免、もっと体調管理に気をつけるか…ら!?」 響也の言葉に耳を貸さないと告げるように、王泥喜はいっそう足を早くする。 まるで走っている状態では、熱がある今の体調には堪える。地下鉄の入口を潜ってもその速さは変わらず、待ってと告げる間もなく強引に手を引かれ、階段で足が縺れた。 転びかけ、傾いだ身体は王泥喜が支えてくれた。なんとか踏みとどまり、顔を上げた響也を王泥喜が見下す。普段は可愛いと称しても問題のない瞳が細められ、鋭く睨み付けている様子も、見下ろしてくる馴れない視線も、酷く威圧的で、響也に王泥喜の怒りを思わせた。 なのに、熱で浮かれている脳味噌は、響也の思考に(格好いい)と刻む。もっと見ていたい、もっと見つめられていたい。この視界に僕以外の誰だって、侵入させたくない。 今が深夜で良かった。此処が地下鉄の入口で、狭い通路の途中で良かった。 本当に思考がどうかしていると思うのに、止められない。 きゅっと、王泥喜の眉尻がまた上がる。顔が近付く。ああ、怒られると、罵られると経験が教えてくれるのにどうしても、逸らせない。 鼻と鼻が軽く擦れるほど近くなった王泥喜の顔を、瞠目したまま響也は見つめた。 ジャラリと響也から金属の音がした。じっと見つめていたアイスブルーの瞳が瞬いて、不思議そうに小首を傾げる。 「な、にかな?」 (何とか聞いてくるんじゃない)と王泥喜は眉と触覚を垂れさせた。 ここまで顔を近付けてるのに、なんでアンタは目を閉じないんだ。キスしたいに決まってるだろ? 空気を読んでくれ、空気を。 だらだらと額に汗を落としながら、王泥喜は制止する。 端から見ていれば、なんて面白い格好だろうか。片手は握りあったままで、俺は牙琉検事の腰を掴んでて、彼の手は俺の肩に乗っている。ああそうだ、社交ダンスを踊ってるみたいじゃあないか。 路上で病人相手に欲情して、欲求が抑えきれずに人目を避ける為に駆け足になった挙げ句に、キスするから目を閉じろとは流石に言いだせなくて、王泥喜は奇妙な気恥ずかしさに、顔を紅くする。 響也を支えている手と反対の、未だに握られている左手も腰に回してから、足場を確認するように促した。 「足、平気ですか?」 「あ、うん。ちょっと吃驚したけど、ありがとうおデコくん。」 足元に視線を落として、体重を両足に戻したのを確認して引き寄せていた腰を解放する。それでも、一段下がっている響也との身長差は変わらない。 見上げてくる顔は、普段の自信に満ちている響也とは一風違っていて目が離せない。熱で潤んだ瞳と、紅潮した頬に視線を奪われている間に、響也は王泥喜の額に口付けを落とした。 爪先立ちをしていたらしい響也がすっと低くなる様子が新鮮で、可愛らしい。 『お礼だよ。』なんて言いながら、軽く瞼を落とす仕草も愛らしかった。 なんで、今、目を閉じるんだ。いや、そうじゃない。そうじゃなくて、…俺からしたかったんだよ! しかし、情けない事この上もない主張は、何とか王泥喜の中に留まった。 content/ next |